「…。」
ツナが意識を取り戻して最初に感じたのは、い草の青い匂いだった。
ぼぉっと目を開ければ、薄暗い部屋。暗い色をした木の天井に、不透明で濃い影が揺らめいているのが見える。
首を巡らせば枕元に自分のカバンがあるのがわかった。その近くにある燭台の上には、もうだいぶ短くなった蝋燭が灯っているのが見える。天井の影が揺らいで
いたのは蝋燭の炎のせいだったようである。
ツナは自分が夏用の薄くてやわらかな布団の上に寝かせられていた事に気がついた。青い匂いは畳のもののようだ。ここはどうやら和室のようである。
蝋燭のある側から反対側に首を巡らすと、障子が半分程開いていてる。その向こうにある縁側の蚊取り線香の隣に一人、ゆるく団扇を扇ぐ暗い色をした和服を来
た人間が、この仄暗い世界に溶けこんで静かに座って居た。
その上に吊るされた風鈴から時折、一瞬のうちに水面を伝う光の反射に似た澄んだ音が放たれる。
ツナは、はっきりしない頭でその人物の輪郭をなぞる。
「(きれーだなぁ…)」
障子の向こうでは、煤のような漆黒の山際が、鮮やかな夕暮れの残骸を連れて行き、蒼く深く透明な、例えるならサファイアの薄くしたものを幾重にも幾重にも
重ねたような、蒼い夜の緞帳を引き下ろす所だった。
低く薄く、黄昏にたれ込めた雲は薄明く輝き、この時間帯が未だ夜ではないのだと主張をする。
されどゆっくりと天球は転がる。せっかちな一番星を筆頭に、小さくも明るい星が一つ、また一つと灯るように輝き始めた。
それに一歩遅れて天頂からゆっくりとひとつ、またひとつとこぼれるような星達が灯る。
やがて宵の明星(金星)が地平へと帰り、縁側に座る人間の傍らにある蚊取り線香の明かりですら眩しいと思える頃には、空には降るような星と天の川が見えて
いた。
縁側に座る人物が、ゆっくりと振返る。
「起きてたの?」
ツナは戦慄した。
「なら言ってよね。薄々感づいてはいたけどさ。」
雲雀はゆっくりと立ち上がり、ツナに近づく。
身をかたくしたツナを素通りして、雲雀は息も絶え絶えな蝋燭を新しいものへと換える。
「あの、ヒバリさん…?なんで…つーかここ、どこ…?」
「どこって、ここは僕の家の一つだけど。」
「ほえ!なんで!」
「なんでとはまた失礼だね。せっかく助けてあげたってのにさ。ところで具合はどうなの。」
「助け…?」
「君、公園で熱中症起こして倒れてたんだよ。」
「え!」
「全く、あの炎天下で帽子もかぶらず直射日光を浴び続けるなんてのは自殺行為だよ。おまけに脱水症状まで起こしてたんだから。」
「あ、それは…すみません…。」
ツナが冷や汗を垂らしていると、閉じられたふすまから小さく音がした。
「…入っていいよ。」
雲雀が声をかけると、地味だが品の良い涼しげな着物を着た、やはり品の良さそうな穏やかな笑顔のおばあさんが静かにふすまを開けて現れた。
「おや、目が覚めたのかい、よかったねぇ。」
そう言っておばあさんは嬉しそうに目を細めた。
そうすると、このおばあさんは本当に綺麗だった。
「どうしたの、ばあや。」
雲雀が仏頂面で問いを投げる。
するとおばあさんはやわらかな笑みを崩さずに、続けた。
「そろそろお腹がすくんじゃなかろうかと思ってねぇ。その子も丁度良い時に目が覚めたようだし……そうだ、今日は暑いからざるそばなんてどうかしら?」
「いいね、それ。天ぷらはつく?」
「えぇ、もちろんよ。そうそう、今はお茄子が美味しいから楽しみにしててね。あぁそうだ、あなたはどう?好き?」
ツナはいきなり話題を振られて戸惑いながらも、「はい」と静かに頷いた。
するとおばあさんはやはり綺麗に、嬉しそうに笑うのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
しばらくするとお膳に乗った、いかにも美味しそうなきらきらとしたざるそばと、パリパリの衣がついた天ぷらが運ばれて来た。
ツナは手伝いたかったが、やはりふらふらしてしまってできなかった。せめてもと布団を引きずって部屋の中央を広く取る。
雲雀は立ち上がり、障子を閉じて蝋燭を吹き消し、部屋の中央にある電灯と、すみに忘れられていたかのように存在していた扇風機をつける。オレンジ色の強く
はない光が部屋を包んだ。
「電球…。」
「文句ある?」
「いや、ないです……。でも、珍しいですよね。」
「まぁね。蛍光灯じゃ風情がないでしょ。」
「えぇ、そうですけど…」
「書き物をしたり読み物をする時は別の部屋に行けばいいし、結構快適だよ。涼しいしね。」
雲雀とツナ、和室で2人向かい合わせてざるそばを食べる。
汁が畳に跳ねないように細心の注意を払うツナ。その時になって今更、ツナは自分が今来ている服が見覚えのない浴衣である事に気がついた。
「あ、そういえば俺の服…!」
「ばあやが洗濯してる。」
「あ、え…」
「汗でずいぶんな事になっていたからね。何か問題あった?」
「いえ、ないです…。」
「多分ばあやの事だから、この夕飯を片したら洗濯すると思う。明け方には乾くと思うけどどうする?」
「どうする、と言われましても…えと…」
「帰りたいならその浴衣貸すけど。何もないなら泊まっていきなよ。」
「い、いいんですか…?」
「赤ん坊に貸しが作れる。」
「はぁ…」
「それに。」
「そ、それに?」
「退屈だしね。」
「おぉ…。」
しばらくして2人が食べ終わるとまた、雲雀が”ばあや”と呼んでいたおばあさんが現れて、2人分の膳を下げていった。
「障子あけてくれる?あと扇風機止めて。」
ツナは雲雀に言われた通り動く。
雲雀は電灯を消し蝋燭をつけた。
ツナが障子を開けると、風鈴の音と柔らかな夜風が肌をくすぐった。
「電灯、消さなくてもよかったんじゃ…?」
「虫来るけどいいの?」
「やだ!」
闇に目の慣れないツナの目の前を、雲雀はすいと通り抜けて縁側へ出る。
少し間を置いて、雲雀がツナへ「おいで」と言った。
ツナはその言葉に従って縁側へ出る。
五月蝿い程の虫の鳴き声が耳を震わせた。
「ヒバリさん。」
「君のサンダルはそこにあるよ。」
「あ、はい…でも、どこへ行くんですか?」
「ついておいで。おもしろいものを見せてあげる。」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
雲雀の家を出て、山へと続く道を歩く。
帰宅部のツナは普段日の沈んだ道を歩くことなど殆ど無く、街灯の灯る町はまさに未知の世界だった。
ツナは蛾の集まる電灯の下を避けてみたり、野良猫の集会を発見したり、家の前で焼き肉をしている家族を尻目に、前を歩く雲雀を見失わないようにしながら
も、普段で歩く事のない時間の外出を楽しんでいる。
そして舗装された道の果て。古い住居と新しい住宅街の混在する小高い丘から山へと続く林道の前。
林道には"立ち入り禁止"と書かれた看板とともに鎖がかけられていたが、雲雀は気にせず鎖をまたぐ。
「君もこっちにおいで。」
「や、でも…」
「僕にルールが関係あるとでも思ってるの?」
「そういやそうでしたね。」
ツナも鎖をこえてついていく。林道は砂利道だった。
雲雀はツナに、出足に持たせた懐中電灯を点けるように指示する。
そして「絶対に僕の明かりを見失わないようにね」と忠告した。
2人は林道を歩く。
真っ暗な森の中において、木々の隙間から見えるこぼれるような満天の星と、ツナと雲雀の懐中電灯だけが光源だった。
木の葉のかすれる音、虫の声、そして時折遠くで聞こえる野犬の声。それから2人分の足音だけが、この暗い世界に満ちている。
ツナは宙を歩くようなふわふわとした気分で雲雀の後ろを歩いていた。
ひらひらと揺れるのは懐中電灯の明かり。日常でありながら非日常な森の匂い。
「ヒバリさん。」
「どうしたの。」
「あの綺麗なおばあさんは、雲雀さんのおばあさんですか?」
「違うよ。」
「え。」
「赤の他人。」
「そう、なんですか。」
「そう。僕がまだ幼かった頃にお世話になった人。」
「へぇ…。」
雲雀は昔を懐かしむような目をしたが、すぐに何かを思い出すように眉間にしわを寄せた。
やがて森に広がるざわめきに、せせらぎの音が混じるようになる。
音はすれども音源たる沢は見えず、このままではまるで天の川のせせらぎのようだ。
それならば、空にかかる猫の爪に似た細い細い三日月は天の川を渡る船だなとツナは漠然と考える。
やがて雲雀は林道からそれて、森の中…獣道に分け入った。
足下に気をつけてと言われたにもかかわらず、お約束のように転ぶツナに雲雀は小さく嘆息する。
そしてまた少し程度進むと、そこには小さな滝があった。
「川下に向けて少し歩くよ。」
雲雀の言葉に従いツナは歩く。道が悪い。
まるで舗装された道路のように違和感なく歩く雲雀の、小さな明かりを見失わないようにいそいそとツナは歩く。
真っ暗な森の、揺れる小さな明かり。
小川を行く魚のようにすいすいと進む雲雀に、遅れないように、珍妙な動きでついて行くツナは、まるで溺れたヒヨコのようだ。
少し進むと川は、本流と小さな沢にわかれていた。
沢に沿ってさらに少し歩くと、雲雀はおもむろに振返ってツナが来ている事を確認した、そして懐中電灯の明かりを消す。
「ほら、君も。」
「あ、はい。」
ツナが明かりを消すと、目がなれないせいもあり周囲は本当に真っ暗になった。
木々の葉がかすれる音や虫の声などに混じり、遠くで野犬の遠吠えが聞こえる。そういえばもう山の中である、熊や猪などの獣に襲われてもおかしくはないのだ
という事実に、ツナは少し背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しかし、今目の前にいる学校の先輩は彼らよりも格上だろうから多分大丈夫と思い直す。でもそれもなんだかなぁとツナは心の奥でぼやいていた。
「見える?」
「え。」
「足下。」
ツナが目線を落とすと、そこにはぽつぽつと明かりが見えた。
それらの明かりはついたり消えたり、緩やかな明滅をくりかえしてゆっくりと地上を、空中を動いていた。
「これって…ほたる?」
「そう。きみってば随分な間抜け面だね。はじめて?」
「はい…!」
更に目が慣れると、感じる明かりの数はどんどん増えていく。
そして地上にも星空が広がるような見事な光景を見せた。
ふわりと手に止まった小さな蛍を、しげしげと、ツナは不思議そうに眺めている。
雲雀はそれを満足げに眺めながら不意に、
「春はあけぼの、夏は夜っていうの、少しわからなくもないよね。」
「え、なんですかそれ。」
「…枕草子。すごく有名な節。」
「スミマセン…。」
「春は曙、日の出の頃が美しい。夏は夜がきれいだねって。」
「へぇ…!」
「その夏の項にね、ほたるきれいだねってあるんだよ。いっぱいいるのも、ひとつ、ふたつのもいいよねって書かれてるの。知っときなよ日本人なら。」
「…べ、勉強します…。」
「ま、べつにどうでもいいんだけど。昔の人がどう思おうが勝手だし」
「(どうしよう、反応したほうがいいのかこれ…)」
ツナが眉間にシワを寄せている事など気にせず、雲雀はなおもツナにふる。
「そうだ。ねぇ、集めてあげようか。」
「え、何をですか。」
「ほたる。」
「ど、どうやって?」
「少し目を閉じててね。いいって言うまであけちゃ駄目だよ。」
一瞬、閉じた眼に光を感じる。
結構目に痛い。
その明かりが再び消えて少しして、
いいよと小さく声がした。
ツナが従って目を開けると
たくさんの蛍が雲雀の側に集まっていた。
「すごいや!どうしたんですか!?」
ツナが尋ねると雲雀はふふんと鼻で笑って、
「懐中電灯つけてたの。」
「すると集まるんですか?」
「蛍と言えど所詮虫だしね。」
「…。」