あぁ、なつかしい。
ここは正確には故郷の村の隣の街ですが。
父様が隠居の身になられてから引っ越した父様の故郷の村。あの村には鉄道がありませんから、この街で汽車を降り、山を越える必要があります。




しかし、一刻も早く帰りたい気持ちとは裏腹に、どんどんとあたりは暗くなってゆきます。
一応、それなりの道はあったとは思いますが・・・たとえ、幼い日よりよく足になじんだ道だったとしても、夜の山越えは危険です。残念ですがここは宿をとるのが懸命ですね。


まだ兄様が床に伏せる前、よく山を越えてこの街まで買い出しに来ていました。子供の足では一日で往復出来ないからと、この街で宿を取って・・・夜遅くまで勉強を教えてもらったり、悩み事を聞いてもらったりした思い出が、一つ一つ蘇ってきます。
陽はどんどん落ち、空はどんどん暗くなってゆきます。いわゆる黄昏時・・・ですね。空がほのかに紅いのは気のせいなのでしょうか?



あぁこの空から、晴れる事の無いこの暗い雲がなくなったならば、一体どんな姿をしているのでしょうね?
実は、血のように紅いのかもしれません。
済んだ、抜けるような蒼も素敵です。
新緑の緑も美しい。
雪のような白だったなら、雪が降ると目が痛そうです。
真っ黒だったり、灰色は嫌ですねぇ。面白くない。
ひょっとしたら一色ではないのかも?
時間によって色が変わったなら素敵ですね。
あぁ、たまに雲の向こう側に光っている太陽も見えますね。
私は、きっとあの玉はとても眩しくて、あたたかい光を放っているのだと思います。


あぁ、軍学校をやめたならば、科学者になりたいですね。そして、この世界を覆う黒い雲を全て吹き飛ばしてしまいたい・・・。
まぁ、まずは猛勉強して大学に行かねばなりませんね。鬼のような猛勉強をして、試験に受からなければ。
でも、きっとやれると思います。自分の手で雲を晴らすという願いの、夢のためならば。


そんな事を考えている間に、外は真っ暗になってしまいましたね。
明日は、明るくなってきたならばすぐに出発しましょう。
一刻も早く、帰りたい。



















慣れた山道を歩いてゆきます。
いつも「半分」の目印にしていた、曲がった枝のある木。
いつも腰掛けて休憩していた、あのころは丁度良かった岩。
登りも下りも泣かされた急勾配。


・・・そろそろ頂上だ。
早いもので、軍学校に入学する時ですら息を切らしてここまで来ていたのに、今は軽く乱れる程度です。
この分なら休憩は要りませんね。
下りましょうか。


あぁ、ここは傾斜が急でいつも兄様に手をひいてもらっていた場所ですね。
兄様はお元気になられているでしょうか?
母様はお変わりないでしょうか?
確か、ここから道をそれて、土手を滑り降りて行けば近道でしたね。
いきなり村に出てしまいます。きっと、昔の知り合いが見たならば、いつまでそんな子供じみた事をしているのだ、と叱られてしまうかもしれません。








山を抜け、視界が一気に開きます。
そこには、私の記憶が正しければ兄様の友人であった方の家と畑があった筈でした。


しかしそこには、何もありません。


いえ、その方の家だけではありません。村そのものがありません。地形も、激しくかわっているようです。裏の山がありません。地面が、抉られたようになっているようです。
ありったけの小遣いを持って走って行った駄菓子屋も、むかっ腹を立てたガキ大将の家も、雨が降るたびに軒を貸してくれたおばさんの家も、ありません。
かつて“道”だった、と思われる場所を辿り、自分の家へと向かいます。
もちろん、瓦礫しかありません。いや、瓦礫すらも殆どありません。
一体何があったのでしょう?自分は降りる駅を間違えてしまったのでしょうか?




私には、そこに立って呆然としている事しか出来ませんでした。
いつの間にか冷たい雨が降っている事にも気がつきませんでした。